激動の2011年が暮れました。わたくしが申し添えることもなく、3月11日に発生した東日本大震災は、未曾有の大惨事、多くの日本人に自然の脅威や命の重さを痛感させられました。同時に、助け合い、支え合う人たちの姿から、日本人の成熟した倫理感、連帯感、心の温かさの心根を思わずには居られない出来事でした。世相を表す漢字は、「絆」でした。大震災を通して家族や仲間との絆の大切さがクローズアップされたことが要因でした。絆の基軸は料理にあるように思います。食事を設え家族の健康を祈願し、よき幸に思いを馳せる。食の出会いは、いのちの出会い。食の絆は、いのちを繋ぐ連帯なのです。此の度、エスカル・クッキングスタジオは、おかげさまで、3月に10周年を迎えます。支えて頂いた多くの皆様に心からのお礼を申し上げます。混沌とした現今の時代だからこそ、基本に忠実に教え、真に本物のおいしさを目指し、
追求していきたい。エスカル・クッキングスタジオの真摯な姿勢であり料理理念です。永世理念は、「食卓こそは幸福の舞台」、食を通して幸福の舞台を紡ぎます。本年が皆様にとりまして幸い多き年となりますよう祈念致します。
安谷屋純一ブログTOP > 安谷屋便り
『安谷屋便り』の最近の投稿
新年のご挨拶
2012/01/15 22:49 カテゴリー:安谷屋便りエスカルクラブ大豆栽培への讃歌
2010/11/19 11:04 カテゴリー:安谷屋便り 此の度、去った10月31日にエスカルクラブ(会長:當山孝吉)の悲願であった「ゆし豆腐作り」がエスカル・クッキングスタジオに於いて、役員、賛同して駆け参じた会員や生徒の協力のもと開催にたどり着きました。聞くところによると大豆栽培は心底、根気と情熱がないと重荷になる半端な作業ではなかったこと、荒れた土地を開墾し、土を整えつつ、種を蒔き、雑草を取り、水やり、虫との格闘、何一つとっても、半端作業ではありません。予期せぬ大雨、苗木もなぎ倒す突風の自然の試練に抗うことなく受け入れ、然るに自然と対峙しながらも、大豆の成長とともに自然に畏敬の念を感じつつ、風土の力を感じ、失われつつある身体をよみがえらせ、五感の冴えは、生きる喜びなのですと、敬愛する當山会長は申されました。役員、会員と共に讃えたいと思います。私は私淑する俳人、種田山頭火が詠んだ
山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし ゆうべもよろし
の詩をエスカル農園から思惟した。
辰巳芳子先生の大豆100粒運動に賛同し、賛同は共感になり、共感は絆となって、実行に移されたのです。エスカル農園の大豆栽培も2年目に見事に黒いダイヤの如く実り、集まった同志によって、収穫から脱穀に至り、いよいよ、クライマックスの幕は上がり、エスカル・クッキングスタジオの舞台で丹精を込めた大豆は、ゆし豆腐の高貴な香りとともに調理されたのです。當山会長の「さあ、召し上がれ」の合図と共に、唯一無二のゆし豆腐に細胞の隅々まで大豆の醍醐味を味わった。わたくしは、ゆし豆腐の根源的深義を味覚回路に記録した。
美食の巨人・北大路魯山人は、素材の持ち味を最大限に生かしたシンプルさを信条として「素材の持ち味を味わうという考え,美味いものを食べるのではなく、美味しく食べるのだという考え、そして料理とは、愛情に満ち溢れた、食べることを慈しむ心でなければならない」と考えたのです。美食の原点は家庭料理にあると喝破したのです。
真の美味・美食とは、遥か遠いところの物語ではなく、深意に満ちたエスカル農園にあったのです。豆腐の故郷は、中国が発祥の地です。日本に伝来したのは、奈良あるいは鎌倉時代といわれ、史実としては、まだ未知の領域です。おそらく、鎌倉時代の精進料理の普及に伴って 僧侶 から庶民の生活へと普及したといわれています。沖縄に伝わったのは、中国との交易が始まった14世紀以降、冊封使に随行した料理人によって伝えられたようです。
本土の豆腐は、あっさりと淡白で上品な味わい、煮ても、焼いても、揚げても、そのまま冷やっこにしてもおいしい。京都の湯豆腐はきめが細かく、やわらかな口あたりが、島豆腐との違いに驚きつつも非凡なる出来上りに遡るような歓喜を覚えたものです。本土の豆腐もおいしいが、ウチナーンチュは、どーんと構えた存在感のある剛健たる島豆腐に愛着があるものです。本土の豆腐は呉汁(水に漬けた大豆を挽いた汁のこと)をいったん煮てから漉す「煮とり」という製造方法が主流だが、沖縄の豆腐は呉汁を生のまま漉してから、おからと豆乳に分け、その豆乳に、にがりを加えて凝固させる「生しぼり」が主流です。製造の違いは、味、風味、形にも影響するのは当然といえます。
結びに辰巳芳子先生の100粒運動の意志を添えておきます。在来種とその食方法を調査・発見し、復活・復興をうながし、援助すること、大豆再興が地域の着実な底力となるよう「合力」することです。大豆を通して深い洞察力に基づいた「食といのち」への提言に賛同して参ります。 安谷屋純一
おいしさの私的解釈(1)
2009/04/15 17:02 カテゴリー:安谷屋便り
料理が「おいしい」か「まずい」かに客観的な基準はあるのか。なにをもって人はおいしいと表現するのか。大変難しいテーマである。 あくまでも私的な考えや理解の範囲で述べてみたい。
とはいうものの、おいしさの基本的(普遍的)な基準はあるかといわれると、ネガティブな言い方だが、「ない」というのが真実に最も近い答えではあるまいか。 「おいしい」「まずい」は、主観が伴うから、一流のシェフがこしらえた料理でも、「おいしくない」と言う人がいたら、その人からはその料理が「おいしい」ということから遠いことになる。 その人の生活スタイルや生まれ育った環境、モノの見方、考え方、そのときの感情、健康状態などにより変化するため、「おいしい」の基準は、恋愛のそれと同様に、答えがないといっていい。
「優れた絵画は、おいしい料理に似ている。味わうことはできても、説明することはできない。」という名言があるように、おいしさは説明できない不思議な世界なのだろうか。 いきなり結論からいうと、「おいしい」か「まずい」かは、乱暴な言い方だが、やはり客観的な基準などない。各個人の好き嫌いに帰結してしまう。 しかし、それでは単純に個人の好みだけに帰結するのかとなると、レストランをランク付けするミシュラン(グルメの聖典といわれ、世界のグルメの頂点に君臨する美食家のバイブル)の3ツ星の存在を否定することになる。料理学校の存在も疑わしくなる。
安谷屋純一ブログ「食の憧憬」開演
2008/11/26 14:00 カテゴリー:安谷屋便り
あなたにとって『生きる』とか『しあわせ』とは?って聞かれて、すぐに答えられますか。
むつかしいですよね、論理的とか哲学的とかになってしまいますと・・。
でも、日々の食を通じて、わたくしと一緒に考えてみませんか。
食べることの意味を探り、深めていく。食は、いのちの真ん中、世代をつなぐ命のリレー。
あまりにも日常的な「食」を、思いのままつづります。
さあ・・・食の舞台の開演です。拍手で迎えていただけたらとてもうれしいです。
それでは、よろしくお願いします。
2008年11月26日 安谷屋純一

続きを読む






