琉球新報 週刊レキオ2009年8月27日(木)号より転載
「食卓こそは幸福の舞台」その5
エスカル・クッキングスタジオ安谷屋純一
~料理に究極はない~

日本の近代フランス料理に偉大な功績を残した巨匠、辻静雄先生(辻調理師専門学校創立者にして前校長・故人)のことを、端的ではありますがエピソードを交えて書き記して、先生の美食学から食卓の幸福を紐解いてみたいと思います。先生のことを書くことにあたり、遺された膨大な資料に目を凝らし、先生の深層心理まで踏み込まないと、真実を記すことは不可能と思うのですが、滅相もないことなので私的解釈に留めたいと思います。
「料理に究極はない」大胆で示唆に富んだ名文句で、私は食指が動きました。先生は次のように説明しています。世間は、非常に安易に『究極の味』という表現を使っています。しかし、この表現は一種の撞着語法(どうちゃくごほう=つじつまが合わない表現)で、味に『究極』などというのは、実はあり得ないのです。私は料理を作る側の人間で、いわば職人ですが、その職人の立場から言えばもっとおいしいものが作れないかということを常に模索しているのであって、今日 100%おいしいものが作れたと言ってしまったら、我々職人というものは、おしまいであると思っています。
~料理人は常にアグレッシブであり続けること~
絶えず自分の作っている料理に不満であり、もっとおいしいものができるはずだ、と考えながら作っているからこそ、職人なのです。常にアグレッシブ(積極的)であり続ける。いつも『究極』には至りません。なにかもっと、おいしいものがあるかもしれないという怪訝な顔をした、常に訝(いぶか)しく思っている自分が、そこに居ます。だから『究極』という言葉をみだりに使ってほしくないのです。たゆみない熱意の積み重ねの結果、到達した気概が伝わってきます。
辻先生の「究極」の中から読み取ることができるとしたら、料理に定まった定義はなく、その料理人の心魂にあるのではないだろうか。お釈迦様は、説法の一説「釈迦の無記」という中で、「人生の意味は」の問いに、答えは無意味、そう簡単に言葉にできるものではないとあえて避けている。言葉にあえてしないことで、その感触の純粋さを保つことにしたのです。料理も同じようなことがいえるのではないでしょうか。
~料理はレトリックでごまかせない~
辻先生はさらにこう続けます。言葉で表現できないというのは、言い換えれば、料理はレトリック(修辞法・美辞麗句)でごまかせないということです。最高の食材を使って、おいしくない料理を作る料理人がいます。しかし、作る側の腕がいくら良くても、品質の良くない食材でいおいしいものを作り出すのは不可能です。それから作る側が未熟だと、最高の食材を活かしきれません。また、作る側の腕が良くても、品質の悪い食材では、おいしい料理は作れません。
~プロの味もおふくろの味も原点は同じ~
誤解を避けるために付け加えますが、辻先生の解釈は、料理のプロフェッショナルという観点からの料理芸術の探求でありまして、プロの仕事に対する姿勢を垣間見たと感じ取っていただけると幸いです。「お袋の味」とは一線を画くするものであります。 おふくろの味とは、特別なものではなく、まや難しいものでもなく、お金のかかったものでは、もちろんあるはずがありません。お母さんの手作りで食べ慣らした味、飽きの来ない味、お母さんの愛情の息のかかった味をいうのです。
プロの味を楽しむのも、おふくろの味を楽しむのも、作り方のテクニックは違っても、おいしい料理を作り、楽しく絆や心の輪を育むという根源的な原点は同じことのように思います。まさにこれも『食卓こそは幸福の舞台』なのです。次回は「男の料理は食卓の幸福」を書かせて頂きます。