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『安谷屋純一 コラム』の最近の投稿

「台所はいのちを育てる空間」

2010/07/22 17:52 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

週刊レキオ 2010年2月25日(木)号より転載
エスカル・クッキングスタジオ
安谷屋 純一

        国の衰退は、食の崩壊から

台どころは命を育てる空間.jpgのサムネール画像「食、乱れて、国滅ぶ」日々益々、憂慮しているのは、わたしだけではないと思います。現今、日常生活のあらゆる場面で、わたくしたちを取り巻く環境は思いのほか、とてつもなく大きく変わっています。その変化は只事ではなく、どのような影響を及ぼすか政治も経済も情報が錯綜して先が見えてきません。なにを羅針盤にこれからも暮らしていくか、文明の隘路に差し掛かったようです。国力の衰退は、まず食の崩壊から正していくべきです。

         いのちへの祝福

 プリンシプル(原理・原則)は、「何気ない、平凡なこと」のなかにあるように思います。「食べ物を用意することは、いのちへの祝福」辰巳芳子先生の切なる心根です。現今の様相は、台所を手放し、レストランにて大声でしゃべりまくる女性の皆さん、彼女たちは、自分の家で友人と馬鹿笑いをしている日常を、そのままレストランでもやっている無作法に気付いていない。
 子供の鋭い視線にも気付いていない。立食の場で、食べきれないほどお皿に盛り、祝宴の後の哀れな食べ残し、世間の様相も乱れてきた。階段を足早に急ぐ若い女性たちのけたたましいハイヒールの金属音、自分の立てている騒音が彼女たちには聞こえていない。一方、車内で片手に握る携帯電話を見つめる男たちが、メールなのか、ゲームに熱中しているのか、公共の乗り物の中に居る自覚がなく、自分の世界に閉じこもり外界を眺める余裕はない。

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      「プリンシプルに立ち返る」

2010/06/15 09:39 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

週刊レキオ 2010年1月28日(木)号より転載
エスカル・クッキングスタジオ
安谷屋 純一

             現今の食の乱れに警鐘

シンプルに立ち返る.JPG

 あけましておめでとうございます。2010年、新しい時代があけました。読者におかれましては、清々しいお正月を迎えられたこととお慶び申し上げます。今年は寅年。本来、十二支と動物の関係は何の関係もなく、中国の戦国時代(紀元前480~247年)に中国歴代王朝の暦を周辺の未開の地方に伝えるために覚えやすい動物の名前を付けたのだという(現代こよみ読み解き辞典)。
               
            寅は力強さの象徴
 
「つつしむ」「たすける」という意味があるようですが、虎は力強さの象徴として掛け軸や屏風絵に描かれてきました。十二支の寅とは、イメージが程遠いようです。しかしながら「たすける」という意味は、混沌とした時代には、天佑(てんゆう)の至りです。とは申しても、吾が身に起きている現象と此の世の様相に愕然としております。戦後最大のマイナス成長を経て、再生を模索するニッポン。政治のことは見識ある政治家に希望を委ねるとして、わたくしには、食の周辺の騒々しさには、無関心ではいられません。現今の食の乱れは、只事ではないのです。 添加物食品や農薬が生態系に及ぼす危険性、公害や地球温暖化、食料自給率やフードマイレージ(端的には化石燃料を大量に使って運んでくること)の問題、あってはならない食品不祥事件など、挙げれば、いかほどのことか、禍々しい食の状況です。

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古の静謐な正月、現今は狂宴

2010/06/ 4 16:48 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

週間レキオ 2010年 1月 1日(木)号掲載より転載
エスカル・クッキングスタジオ
安谷屋 純一

     正月は寿ぐ、いのちの賛歌
関東風雑煮.jpg                 
 あら多(た)まのとし尓(に)(たん)と昆布(昆布)(か)ざて 
こころ可(か)ら春可堂(すがた)わ可久難(かくな)ゆ散(さ)祝節 
読み人知らず「琉球歌選 佐久本興吉著」(解説)
新しい年に炭と昆布を飾って心から姿が若返ったような気持ちになった。
と記されている。

     豊作儀礼の祝事

古の沖縄の正月(ソーグゥチ)は、農耕が主であり、その年の豊作祈願を農耕神に農作儀礼のひとつでした。生活様式が目の回るように移りゆくなかで、信仰的な様式は薄らぎ、昔ながらの新しい年を迎える祝膳は消えつつあります。日本の正月を祝う習慣は、平安時代、長寿・五穀豊穣を祈願するために、鏡もちを供え、祝の料理をこしらえ、それを拝することに始まったといわれています。尊敬申し上げている料理研究家・辰巳芳子先生は「正月とは、生きとし生けるもののいのちをことほぐ旬節(しゅんせつ)であるように見えてなりません。先人方は、東西を問わず、暦をつくりました。いのちの道しるべ、生きてゆきやすさを手引くよすがとしてで、あったでしょう。その流れを汲んで、今もいのちの在った、在る、在らしめ給(たま)え、を意識するのが正月ではないでしょうか」と伝えます。幼少の頃を追憶すれば、正月は、指折り数え、待ち遠しいもの、厳守な行事などお構いなしの、ただひたすらご馳走が食べられる一念でした。

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食への飽くなき審美眼

2010/05/18 00:45 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

 週刊レキオ 2009年11月26日(木)号より転載
 「食卓こそは幸福の舞台」その8  
 エスカル・クッキングスタジオ
     安谷屋 純一

 近代日本料理に革新的な新たな道を拓いた「美食の巨人」北大路魯山人を食欲の秋になぞらえ、枯淡(こたん)の極致には、程遠いのですが、箴言を織り交ぜながら、私的考察で語らせていただきます。

        美食の巨人 北大路魯山人

             食を享楽した孤高の怪物

IMG_8054.JPGのサムネール画像
 魯山人の書籍「魯山人の料理王国」を手にして貪るように読み漁りして29年の歳月が立つ。
しかし未だ、究明に至らず、読めば読むほど、難解にして新しき発見の過程の日々なのです。
巨人どころか、私に至っては「怪物」であります。私的には好きであり、嫌いでもあり、畏敬の念を抱いて尊敬をもしております。矜持(きょうじ)をもって探求の課題なのです。 魯山人は、寝てもさめても、おいしいもの、美食を探求し続けた、天性の美食家だった。

              器は料理の着物

人並み外れたエネルギーと食への格調高い審美眼をとぎすまし、みずから美味しいモノを求め、料理し、器に盛り、お客様に供した。器も既製品では、あきたらず、料理に合うように、土を求め、多彩な造形の作陶に精魂を傾けたのです。魯山人主宰の「星岡茶寮」は、伝説に名を馳せた料理屋、十分な吟味された、さまざまな料理が供され、繊細かつ大胆な器とのとり合わせには、魯山人の独壇場であったようだ。料理人として、これほどの魅力とミステリーに満ちた人物はいないのであります。
 
 魯山人の語録を綴ってみましょう。先ず、「持ち味を尊ぶ」すべて本来の持ち味をこわさないよう天然自然の持ち味を損なわないよう身土不二(しんどふじ)が肝心なことであると旨述べられた。わたくしは、脳裏に日本画家堀文子先生の本の一説を思い出した。
「どこの蝶も生まれた土地のきまった植物を食べ、ほかのものに目もくれずに生きていく、自分の土地にない輸入品を食べたがる生物は人間だけだ。日本の畑で出来た穀物や野菜を粗末にし、世界中の食物をあさる日本人、長い時間をかけて此の国の風土が造りあげた暮らしの習慣を惜し気もなく捨てた。いずれ、神の仕置きを受けるに違いない」。

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チャンプルー 私的解釈

2010/04/30 22:41 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

週刊レキオ 2009年10月23日(木)号より転載
「食卓こそは幸福の舞台」その7
エスカル・クッキングスタジオ
安谷屋 純一

~チャンプルーの本質は、変わらないからいいのではなく
                          変える必要がないからいいのである~

食卓7


食育とは、生きる上での基本であり、知育、徳育、体育の基礎となるべきもので、様々な体験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てること(食育基本法の一節)になっています。食べていくことは、本来厳粛な営みであり、呼吸と等しく生命の仕組みに組み込まれています。料理研究家、辰巳芳子先生の真意に満ちた言葉です。


                    
「チャンプルー 私的解釈」

 私たちは沖縄の食生活は、ヌチグスイ(命薬)という先人達が寛恕(かんじょ)の精神を指針とし、過酷な風土に対峙しながら、命がけの営みのおかげで私たちは、長寿県沖縄の礎を築いてきました。私たちもこの食の思想をよりよい方向へ進化させて、次の世代に繋いでいく責務があります。

常日頃、考え続けていたところに、友利知子先生(沖縄の食を考える会の主宰)の「チャンプルーとウチナーごはん」という料理の本との出合いに恵まれ、細胞が震える思いとは、このことです。詳しいことは、友利知子先生の書物をお読みいただきたいと思いますが、端的で申し訳ないのですが、私的解釈も含めて書き記したいと思います。

先生は、「チャンプルーをきちんと生き返らせると再び沖縄の食は救われる」と切実に語りかけています。おいしさが光臨(こうりん)するとは、まさにこのことです。

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家族の信頼は台所にあり

2010/02/ 9 17:23 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

琉球新報 週刊レキオ 2009年9月24日(木)号掲載より転載
「食卓こそは幸福の舞台」その6
エスカル・クッキングスタジオ
安谷屋純一

       ~紳士に通じる道は胃を通る~

男の料理12.3.JPG
「男子厨房に入らず」という思想のもと日本男子は、料理を作ることは、恥ずかしきなりと、ごく最近まで風潮されて来た。男子厨房に入らずの起源は、古の中国で、食用の豚や鶏の家畜を台所で下処理していた頃に、その断末魔の悲鳴を聞くと縁起が悪いという古事から伝えられています。また孟子の教えのなかに「男子厨房を遠ざかるなり」に由来するとも言われています。その思想が日本に伝来し、武家政治の始まった鎌倉時代に武士の精神道に合致した。男たるもの、威厳を保つために、むやみに台所に入るものではないと言われたのです。

       ~起源は石器時代にさかのぼる~

 私は男の料理の始まりは、石器時代までさかのぼらないと根幹というものは、わからないと思うのです。断片的になりますが、人間は有史以来、男は弱肉強食の世界で狩猟によって獲物を捕らえ、これらの肉は、生を食らう又は焼くという原始的な調理で行われていたと思われる。それも、男の主な仕事だったのです。一族の食の確保と調理は男の狩が支えていた時代でした。家族のいのちを守るのが男の深意にみちた「証」でした。男の料理は強さと優しさの象徴なのです。

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辻静雄先生の美食学

2010/02/ 8 23:54 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

琉球新報 週刊レキオ2009年8月27日(木)号より転載
「食卓こそは幸福の舞台」その5
エスカル・クッキングスタジオ安谷屋純一

       ~料理に究極はない~

辻静雄氏12.3.JPGのサムネール画像
 日本の近代フランス料理に偉大な功績を残した巨匠、辻静雄先生(辻調理師専門学校創立者にして前校長・故人)のことを、端的ではありますがエピソードを交えて書き記して、先生の美食学から食卓の幸福を紐解いてみたいと思います。先生のことを書くことにあたり、遺された膨大な資料に目を凝らし、先生の深層心理まで踏み込まないと、真実を記すことは不可能と思うのですが、滅相もないことなので私的解釈に留めたいと思います。

 「料理に究極はない」大胆で示唆に富んだ名文句で、私は食指が動きました。先生は次のように説明しています。世間は、非常に安易に『究極の味』という表現を使っています。しかし、この表現は一種の撞着語法(どうちゃくごほう=つじつまが合わない表現)で、味に『究極』などというのは、実はあり得ないのです。私は料理を作る側の人間で、いわば職人ですが、その職人の立場から言えばもっとおいしいものが作れないかということを常に模索しているのであって、今日 100%おいしいものが作れたと言ってしまったら、我々職人というものは、おしまいであると思っています。

       ~料理人は常にアグレッシブであり続けること~
 
 絶えず自分の作っている料理に不満であり、もっとおいしいものができるはずだ、と考えながら作っているからこそ、職人なのです。常にアグレッシブ(積極的)であり続ける。いつも『究極』には至りません。なにかもっと、おいしいものがあるかもしれないという怪訝な顔をした、常に訝(いぶか)しく思っている自分が、そこに居ます。だから『究極』という言葉をみだりに使ってほしくないのです。たゆみない熱意の積み重ねの結果、到達した気概が伝わってきます。 

 辻先生の「究極」の中から読み取ることができるとしたら、料理に定まった定義はなく、その料理人の心魂にあるのではないだろうか。お釈迦様は、説法の一説「釈迦の無記」という中で、「人生の意味は」の問いに、答えは無意味、そう簡単に言葉にできるものではないとあえて避けている。言葉にあえてしないことで、その感触の純粋さを保つことにしたのです。料理も同じようなことがいえるのではないでしょうか。

       ~料理はレトリックでごまかせない~
 
 辻先生はさらにこう続けます。言葉で表現できないというのは、言い換えれば、料理はレトリック(修辞法・美辞麗句)でごまかせないということです。最高の食材を使って、おいしくない料理を作る料理人がいます。しかし、作る側の腕がいくら良くても、品質の良くない食材でいおいしいものを作り出すのは不可能です。それから作る側が未熟だと、最高の食材を活かしきれません。また、作る側の腕が良くても、品質の悪い食材では、おいしい料理は作れません。

       ~プロの味もおふくろの味も原点は同じ~
 
 誤解を避けるために付け加えますが、辻先生の解釈は、料理のプロフェッショナルという観点からの料理芸術の探求でありまして、プロの仕事に対する姿勢を垣間見たと感じ取っていただけると幸いです。「お袋の味」とは一線を画くするものであります。 おふくろの味とは、特別なものではなく、まや難しいものでもなく、お金のかかったものでは、もちろんあるはずがありません。お母さんの手作りで食べ慣らした味、飽きの来ない味、お母さんの愛情の息のかかった味をいうのです。

プロの味を楽しむのも、おふくろの味を楽しむのも、作り方のテクニックは違っても、おいしい料理を作り、楽しく絆や心の輪を育むという根源的な原点は同じことのように思います。まさにこれも『食卓こそは幸福の舞台』なのです。次回は「男の料理は食卓の幸福」を書かせて頂きます。

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食は人格が表層化する

2009/11/20 22:00 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

<琉球新報 週刊レキオ 2009年7月23日(木)号より転載>

食卓こそは幸福の舞台その4
「食は人格が表層化する」
安谷屋純一

~どんなものを食べているか言ってくれたまえ、君の人となりを言いあててみよう~

20080618TK_0015.JPG今回は、専門的になりますが、フランス料理のガストロノミ(美食学)から、おいしさの私的考察も含めて食卓の幸福を解き明かしてみたいと思います。
 
「ガストロノミ」という言葉は、フランス料理に興味ある人、フランス料理を愛する人、プロの料理人が日常的に意識して接している言葉なのですが、この言葉を創ったのは、1823年に『味覚生理学』を著したジャン・アンテルム・ブリヤ・サヴァランでありました(哲学者であり、音楽家・法律家、そして料理を職業としたわけではなかったが、不世出の美食家であった)。

ガストロミとは、食生活を行う存在としての人間にかかわりのあるすべてのものについての理論的知識です。ガストロノミの目的はあたうかぎり上等の栄養によって、人間の生命を保持するように努めることであり、博物学・物理学・化学・商業・経済に、また医学・社会学に関連すると述べています。

サヴァランの格言集に「どんなものを食べているのか言ってくれたまえ、君の人となりを言いあててみよう」という一節があります。食べることから人間観察を示唆した言葉です。料理をする立場から、よくよく自戒しなければなりません。
 
人間の品格が見直されている昨今、作る側にも、食べる側にも品格が問われているように思われます。私事で恐縮ですが、料理人として、実践的な修行修練を積めば、おいしさの域に近づくことは可能ですが、理論的な理解には、いささかならず、視野が狭かった部分が多かったように思います。

確かな知識の拠りどころになったのは、ブリヤ・サヴァランの美食学であり、尊敬してやまない料理評論家で名古屋外国語大学教授の佐原秋生先生、そして、1994年3月2日に急逝した日本の近代フランス料理に偉大な業績を残した巨匠、辻静雄先生。このお二人の食に関する造詣の深さは、驚嘆に値すると思います。 お二人の考えを引用する無礼と分際をしっかりわきまえ、畏敬の念をもってクセジュ(私は何を知っているのか、何も知らないのではないかと、語りかける言葉。仏語。)の支えとしたいと思います。

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味覚を考えるヒント

2009/11/ 9 23:28 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

{琉球新報 週刊レキオ 2009年6月25日(木)号より転載}

食卓こそは幸福の舞台 その3
「味覚を考えるヒント」
安谷屋純一

~おいしいものを食べるのではなく、おいしく食べるのだという考え~

IMG_9636.jpg前回おはなししました「選食力を養うヒント」の中で、書き添えたいことがあります。善意と使命感を持って食育関係者やその団体が食育実践しても、その親である両親が無関心であれば、仏像を彫って魂が入らないのと同じで、肝心要なことがおろそかになってしまいます。食育実践者が抱えている共通の悩みです。 

子供達に食育や選食の重要性を伝えても、実際に料理を作るのはその母親です。親の食事にすべて委ねられている事実を知らなければなりません。親が嫌いな料理は子供も嫌いになる。子供の味覚は、味の刷り込みによって、将来の味覚の嗜好性に大きな影響を与えます。台所は、いのちをつなぐ空間なのです。 

 台所を手放すことは、家族の健康や絆も手放すことだと知ることです。料理研究家の辰巳芳子(たつみよしこ)先生は「食べ物を用意するとは、いのちへの祝福」と伝えています。私はその言葉に心震える感動を覚えました。料理を伝え教える。そして料理を作ることは祝福なんだと、あまりにも日常的で平凡な繰り返しの中で意義をみいだすという命題を如実に表している言葉だと思います。

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選食力を養うヒント

2009/07/ 7 22:13 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

{琉球新報 週刊レキオ6月号より転載}

食卓こそは幸福の舞台 その2
「選食力(せんしょくりょく)を養うヒント」
安谷屋純一


~おいしさの私的解釈~

前回お話しました「選食時代を生きる」について、私的解釈も含めて紐解いてみたいと思います。食卓こそは幸福の舞台
なにをどう食べればいいのか。なにが安全・安心な食べ物なのか。体に良くない食べ物とはどういったものなのかなどを学ぶ前に、基本的な「選食の基準」になることから進めていきたいと思います。
なにをどう選んで食べるかを見極めるためには、まず、食に感心を持つことが肝心です。
一つの食品を選ぼうとするとき、その食品が本当に安全・安心かどうかを、みなさんが今備えている力で良いですので確かめてみてください。例を挙げてみますと、スーパーの食品やおそうざいの原材料名に目を凝らす習慣を身につけるということ。そこから判ることがたくさんあります。

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選食時代を生きる

2009/07/ 3 16:26 カテゴリー:安谷屋純一 コラム

{琉球新報 週間レキオ5月号より転載}

食卓こそは幸福の舞台 その1
「選食時代を生きる」
安谷屋純一


 近年、食を取り巻く環境がおかしくなってきました。 食卓こそは幸福の舞台
世界的に食糧価格が高騰して、主に小麦粉や米、大豆、
トウモロコシなどが軒並み上昇しました。
温暖化の影響もありますが、穀物を燃料として使う
バイオ燃料化が、新たな穀物需要を生み出した結果
だといえます。
 「飽食」といわれた時代が、「崩食」となり、いまや
「呆食」といわれるまで、食の崩壊は急激に進んでいると言っていいでしょう。

戦中、戦後を暮らしてきた世代は、「食べること」とは、[生き延びること」でした。すなわち、「生ききる」につながった時代、おいしいとかまずいとかという基準を持つ余裕などありません。傷みかけたチャンプルーも、それが食べられるかどうかは、色具合を見たり、においをかいだり、味を確かめたりして、自分の五感を頼りに判断しました。そして、それを大事に食べたものものです。食べ物を大事にすることは、生きることへの執着だったのです。「人間の身体は、食べ物から作られている」という根源的なことを、意識することなく理解していました。ところが、今はどうでしょう。食べ物があり余るくらい豊富にあるのが日常です。「人間の身体は、食べ物から作られている」という意識は忘れられてしまっているのでしょうか。

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安谷屋純一
安谷屋 純一
沖縄の料理教室「エスカル・クッキングスクール」主宰。